2016年7月29日金曜日

「現代詩手帖」8月号に座談会が掲載



       関東では梅雨明け宣言もでて、待ちに待ったように暑い夏がはじまった。

    みなさん、ご自愛ください。

    今月の 「現代詩手帖」(2010年代の詩人特集)に岡本啓さん、佐峰存さん、ぼくの座談会が収載されました。
   昨年十二月に、東京は下北沢の本屋さん「B&B」で開催されたイベントの様子です。岡本さん、佐峰さん、編集の出本さん、ありがとうございました。

    ぜひ、お手にとってみてください。

    佐峰存さんは今日、氏の詩篇「黒い森」が現代音楽作曲家の渋谷由香氏により楽曲化され、声楽アンサンブル「ヴォクスマーナ」により東京文化会館で初演されるそう。

    ぼくは、獨協大学でビートジェネレーションやゲーリー・スナイダーの研究者にして翻訳者としても知られる原成吉先生とトーク、朗読。
今秋からスタートする「LUNCH POEMS@DOKKYO」のための収録に出演していた。
    下写真は左から原先生、運営、撮影を担当した実行委員の獨協大学の学生さんたち。このプレイベントの模様は、10月にアップされる予定です。

    LUNCH POEMS@DOKKYOも、いよいよ本格的にうごきだした。

    秋からも、新たに、さまざまなポエジーと出会えそうです。

2016年7月26日火曜日

吉増剛造イベント、アフタートーク


   7月24日にワタリウム美術館で開催された吉増剛造イベントは、無事、閉幕。

   ぶっつけ本番だった、ギターの石井草実さんとのデュオ朗読も、手前味噌ですが、自分なりに手応えを感じた朗読だった(石井さん、ありがとう)。

    出演の「ローライ同盟」のみなさんも、ありがとうございました。

    写真は、出演者席から撮影した、吉増さん。

    東京国立近代美術館からひきあげてきた原稿に、真紅のインクをたらし、朗読もされた。イベントの模様は某文芸誌にレビューがでるそうなので、詳細は語りません。

    石井さんを表参道まで送り、帰りはご来場くださった獨協大学の原成吉先生と渋谷のイタリア居酒屋で呑む。必然、今秋から獨協大学ではじまるLUNCH POEMS@DOKKYOの打ち合わせにもなった。

    毎月、現代を代表する詩人をひとり招いて講演と朗読をお願いし、それを映像で記録する。
    記録映像は、獨協大学図書館のデジタル・アーカイブにアップ、保存し、世界各国からインターネットで無料閲覧できる。
    五年以上の継続を予定しているから、四十名以上の詩人たちの映像アーカイブになるはずだ。

    もう、次のプロジェクトが待ちかまえている。

2016年7月23日土曜日

吉増剛造 with「ローライ同盟」イベント


    7月24日は、予告したとおり、東京は外苑前駅ちかくのワタリウム美術館にて、詩人の吉増剛造さんを「ローライ同盟」が囲むイベントが開催。
   ぜひ、ご来場ください。

    ぼくは、ドイツから帰国したばかりのギタリスト、石井草実さんとデュオで出演。

    ディレクターの小野田桂子さんから、こんなメールもとどいた。

「吉増さん、LAから帰国の機上で、
「ゴッドファーザー」を見たとのことで、
すっかり、ゴーゾーファーザーモードでおられました。「ゴッゾ・ファーザー」とか、「ゴウゾ・ファーザー」おっしゃって、「マーロン・ブランド気分」と嬉しそうでした。」

    そして、イベントのドレスコードは、ゴウゾ・ファーザーだそうな   笑   
    写真はゴウゾ・ファーザーがくださったサイン入り黄色鉛筆。

    では、ぼくも、帽子はボルサリーノのパナマ、シルクと麻で織ったリック・テイラーのジャケット、シャツとパンツはマルニで、でかけよう。

    イベントの詳細はこちら。

2016年7月21日木曜日

テレビ番組『アッシュ』放映決定


    ことしの三月に京都で撮影したカルチャー・テレビプログラム、『アッシュ』の放映が決定しました。
    ぼくも出演しています。
    写真は、撮影後の打ち上げ模様。井上春生監督が、おおきなステーキを撮影しておられる。

    番組の詳細はこちら。

スカパー!ベターライフチャンネル(529ch)『アッシュ』食・言・景 野趣と品格~石田瑞穂(詩人)・みゆ×宮澤政人(料理人)

~ 放送:7/23(土)22:00-22:30 企画構成:城戸朱理 AP:小野田桂子 演出:赤塚敏史 P:井上春生 制作:ハグマシーン
     
    スカパーは、スマホでも無料アプリをダウンロードできるそう。
 
     ぜひご覧ください。

2016年7月20日水曜日

温泉と鮑



   新宿で打ち合わせ。そのあと、猛暑ゆえ、かるくビアホールで呑んでいたら、いつのまにか小田急の快速急行に飛び乗り、気がつけば、鶴巻温泉にいる。

    「弘法の里湯」で、天然温泉、ひとっ風呂。

    駅前のロータリーで涼みつつ、缶ビール。山の風がここちよい。啐啄。ベンチでは、ホームから逃亡?したおじいさんたちが、ワンカップを片手に孫の話に花を咲かせている。

    まだ、時間がある。どこかで腰を落ち着けて、涼みたいなと思う。

    そうだ。藤沢で、鮨、つまもう。

     開店と同時に、「青界」(せかい、と読む)さんにはいる。以前、フェリス女学院大学の講義のあとで、詩人の城戸朱理さんときたお店だ。
    とにかくネタが瑞々しくて、新鮮。まったく飾らない人柄の、若くて元気な大将がやっていて、気持ちよく呑み食いできる。値段も高すぎない。つぎつぎとお客がはいってくる。気どりがなくて、素直なお鮨だ。

    房総の黒あわびがあるというので、お造りにしてもらったあと、にぎってもらう。

    こりこり身がしまっているだけではなく、しっとりと、適度にやわらかい歯応え。くさみはなく、海の、冷んやりした馨が鼻腔にぬける。海馬にとどくかの、つよい磯の滋味。

    写真のごとく、これだけグロテスクな貝を初めて食べた人は勇気がある、と大将と盛りあがった。少々、身を切りとられても、元気に水槽にへばりついている。
    その生命力が由縁なのか。鮑は古来、伊勢神宮の神饌だけれど、やはり最初に食べてみたのは、かみさまだろうか。

    たまにはゆったり温泉につかり、見知らぬ街で鮨をつまむ。そして、とりとめなく考える時間も、愉しい。    

2016年7月19日火曜日

E;の詩集


 「E;」から、私家版の詩集がとどく。

    三年前に「現代詩手帖」誌の新人投稿欄の選者をしていたとき、あきらかに才気のある投稿者がいた。

    子猫沢るび、さん。

    一年の投稿期間の折り返しまでは、この詩人で決まりかな、とさえ思っていた。

    るびさんは、いまはペンネームをE;と変え、写真の私家版詩集『青天井の猫    宇宙規模でさかあがり』を送ってくださった。

    まだ準備詩集という段階かもしれない。現在、某出版社と第一詩集のための相談をしているそうだから。

「さぁ……
        まちの鼓動よ、
               ぜんぶ溶けて誰かの心臓になりな。」

    関西弁とひらがなが旋回させる、猫のようにしなやかでやわらかい言葉の襞には、カミソリのようにエッジのきいた抒情がひそんでいる。   
    目を瞠るフレーズがいくつもあった。
     
    収載されていた詩篇は、ぼくのときに投稿された作品も多いと思う。奥付を見たら、発行日は「二〇一五年十月十二日」になっている。ペンネームが変わっていたから、最初にお送りいただいたときは気がつかなかったかもしれない。
    いまは「E;」という、かぎりなく記号にちかい主体、マスクをかぶった詩人だそうだが、これからの動向が楽しみだ。

   三年が経つというのに、わざわざ近況報告のように私家版詩集を送ってくれたことが、うれしい。

   あのとき、子猫沢るびが渾身で放った言葉が、いまもきらきらした彗星の尾をひきつづけていることも。

2016年7月17日日曜日

執筆時の冷や汁


  

    今月、かなり多忙でした。

    朝から書きはじめたエッセイをアップ。すこし時間ができたので、浦和の日本和食学会会員のお鮨やさん「よし佳」で昼酒でもと、盃をえらび、ジャケットの袖に腕をとおした。
    突然、スマホのアラームが鳴る。

   「Amsterdam Quarterly」〆切。

    アムステルダムの伝統的な季刊文藝誌で、ぼくは今年、連作詩「Asian Dream」のオランダ語訳を連載させてもらっている。季刊なので、一回の掲載が百五十行ほど。長詩か数篇の詩をださなくてはならない。

    一行も、書いていない。

    盃をしまい、ジャケットを脱ぎ、部屋着にしている和服に着がえ、銀軸のボールペンをとりだしてノートにむかう。訳者さんが困るので、〆切、必守。

    昼食に、母が、ことし初の「冷や汁」をつくってくれる。

    母の実家、埼玉県吉見町の夏の郷土料理で、きざんだ葱、大葉と、すりおろした炒り胡麻をいっしょにつきまぜ、氷、冷水、味噌でといた、滋味あふれるつめたい汁料理だ。
    薄切りのきゅうりをいれ、ご飯にかけて、かきこむ。
    ほんらいは冷飯にかけて食べる。炊飯器のない昔は井戸水で飯を冷やし、保存しつつ、冷え冷えのご飯に、冷え冷えの冷や汁をかけて農作業のあいまに食べたのだとか。
    夏は食欲を増進させてくれる。
    めずらしく、おかわりして食べた。

    冷や汁を食べると、いよいよ夏がくるなぁ、と思う。
    
    夕方、できた詩を原稿用紙に清書。アルスメールに住む、オランダ語訳者のホーテン・ヴァン・スズキさんに、詩をファックスする。あと、二十行ほどあるので、夕食後、短詩を追加しよう。

    薄暮の林で茅蜩のささめきがおこった。

    梅雨明けも近いかもしれない。

    作動中のファックス機を見ながら、アムスと冷や汁、その遠さに、くらっとした。

2016年7月14日木曜日

見沼通信〜地酒と鯉



    ぼくの住む、埼玉の見沼。

    江戸幕府八代将軍徳川吉宗により開墾された見沼は、かつては運河舟を交通手段とする広大な水田地帯だった。
    悲しい哉、ぼくの子どもの頃と比較しても田圃は激減してしまったが、一二六〇ヘクタールにおよぶ都心近郊屈指の田園地帯として、緑ゆたかな土地のままである。

    埼玉の銘酒といえば、銀座のカリスマ軍鶏料理店バードランドの和田さんが常備する「神龜」が、まず思い浮かぶ。しかし、まだまだ、埼玉にはかくれた銘酒があるのだ。
    たとえば、入間の地酒「琵琶のさざ波」。良酒ならではの重みと米の香りのふくらみ、自然な甘さ。江戸前の魚はもちろん、鶏料理や蕎麦、精進料理にもあう。

   さざ波は、夏限定生冷酒を買う。なぜかというと、見沼のソウルフード、鯉の煮付けとあわせるからだ。
    金沢のどぜうの蒲焼から学んだことだが、川魚には、こい口といわれる、甘く、重たい日本酒がよくあう。ちょっと泥くさく、香ばしい  笑  風味の鯉の煮付けには、思ったとおり、さざ波の生酒がいけた。
    この酒はそのまま呑むと、かなりのこい口なのだが、不思議なことに、甘く煮付けた川魚とあわせれば、かえって、さわやかな米の香りがたつ。

    ちなみに、今日の鯉は残念ながら見沼産ではない。千葉は佐原の鯉です。さいたま市の川魚料理屋がかなり減ってきている話は書いた。見沼には、たくさん、鯉がいます。でも、釣っても、食べないほうがいいかも。

    ぼくが中学生くらいまでは、近所に吉田屋さんという名魚店があって、注文しておくと、丸ごと一尾、鯉をあらいにさばいて出前してくれた。宝船にのっていたっけ。頭と鰭、がっしりした骨もついていて、母が鯉コクにしてくれた。
    じょうずにさばいた新鮮な鯉は、ちっとも臭くなく、淡麗な刺身と魚油分の濃厚な鯉のみそ汁は、鰻なんかメじゃない活力をあたえてくれた。新潟生まれの祖母が、大好きだったっけ。

    夏になると、あの味が、なつかしくなる。

2016年7月12日火曜日

吉増剛造イベント開催決定


  いただいたギリシャのどぶろくを呑みながら、某誌のために、東京国立近代美術館で開催中の「声ノマ全身詩人   吉増剛造展」について書いていたら、写真家にしてローライ同盟のキャプテン、小野田桂子さんから、「全員集合だよ!」とのメール。

    きたる7月24日、日曜日。

    東京は外苑前駅ちかくのワタリウム美術館で、吉増剛造さんを囲むポエトリー・リーディングが開催決定!18時30分開演予定です。

    出演は吉増さん他、城戸朱理さん、井上春生監督、カニエ・ナハさん、菊井崇史さん、そして、ぼく。司会は遠藤朋之さん。

    ご存知、「ローライ同盟」のメンバーです。

    詳細は本ブログでも追って掲載します。

    乞うご期待!

2016年7月8日金曜日

種子島の時間7〜門倉岬




   種子島の旅の最後は、鉄砲伝来のトポイ、門倉岬。

   聖書とキリスト教が伝来した、スコットランドのエリス島、その断崖にたたなずんだときもおなじ感想をいだいたのだけれど、後の歴史をゆるがす文明が、日本の果ての、静かで、さみしくて、おだやかな土地に漂着したという事実が、なんだか、遠い。

    岬にはぼくら以外、ウミツバメと蜜蜂と蝶と猫しかいなかった。

    海には、無言で向きあうしかない。島に着いてから、雨と曇天だったので、海にきて快晴に恵まれた歓びがこみあげてきた。

    種子島ですごした時間が、汐風とともに背中をおしてくれる。

    こんな島にずっといたら、ほんとうにすごい悲歌が書けるかもしれない。

    南の海に別れの挨拶。

    あばよ、カバよ、アリゲーター。

    また、きます。

2016年7月6日水曜日

詩人とカバン


   スタイリストの馬場圭介さんと文化学院でトークをしたとき。馬場さんいわく、「なんで日本人とアメリカ人はトートバッグがこんなに好きなんだ?って、海外にいくとよく訊かれるよ。ヨーロッパ人にとっておしゃれ着とトートは矛盾するからね」。

     たしかに。ぼくはドイツ人の友人から、日本のビジネスマンはショルダーバッグをよくつかうけど、ドイツ人にとってはヘンなことなんだ、といわれたことがある。
    ドイツでは肩掛けカバンは女性がつかうもので、男性は手提げカバンがふつうなのだとか。いまは、ちがうでしょうけれど。

    三月に京都バルで、写真のバッグを見つけた。イタリアのブランド、マルニが吉田カバンとコラボしたポーター・ヘルメットバッグ。
    最近、都内での仕事はもとより、大学でも講義をするので、容量のおおきいバッグがほしかったのだ。
    カッコよくて、すぐに店員さんに値段をきく。しかし、日本製のポーターにしては、けっこう高い。即買いはためらわれた。

    さいたまに帰宅してからも気になっていたので、惚れた弱味と思い、新宿伊勢丹のマルニにゆく。ところが、売り切れらしくて、結局、京都バルから取り寄せてもらったのだった。

    このマルニ・モデルは、スイスのデザイナー、コンスエロ・カスティリオーニ氏のデザインで、ちょっと北欧モダニズムの香りがする。さわりごこちのよいポーター・オリジナル布は立体裁断。本もゲラもたくさんはいるし、丈夫で雨に濡れてもいいし、気にいっています。

    カバンといえば、ぼくの周辺だと、詩人の城戸朱理さんはプラダのバッグをとても素敵につかいこなしている。バックパッカー詩人の管啓次郎さんは、おおきなバックパック以外、バッグをもっているところを見たことがない。
    面白かったのは、吉増剛造さんのバッグ。外見はノーブランドのトートだが、なかにはペンや本だけではなく、鉄板やトンカチがはいっている。なんというか、吉増さんの場合、ちいさな詩の工房が、そっくりトートに収載されているかんじだ。こんど、ほかの詩人にあったらバッグと中身を見せてもらおう。

    でも、詩人なら、できればバッグはもちたくない。手ぶらがいい。タバコと小銭だけもって、下駄ばきで野原や下町を散歩し、帰りは町の居酒屋か中華料理屋で呑めばいい。

    いつか、ぼくもバッグをもたずにすむだろうか。たったひとつ、いいことといえば、スコッチのボトルや旅盃を携行できることだろう。

2016年7月5日火曜日

UK現代詩と国民投票



    来年になるとは思うけれど、某誌によるイギリス現代詩の特集号を手伝っている。

    T・S・エリオット賞の候補にもなった、イギリスのベテラン女性詩人、ジャッキー・ウィリスから直に伝授された、いま読むべきイギリス現代詩人たちのリスト。写真はジャッキーの直筆メモです。

    翻訳や打ち合わせも、すこしずつ、すすんでいる。

    イギリスといえば、先日のブレグジット(国民投票)により、まさかのEU脱退をした。見込みよりだいぶ下回ったとはいえ、投票率は72.2パーセントだったという。イギリスの若手詩人は、どう考えているだろうか。これからのヨーロッパを問うためにも、UKから目がはなせないと思う。

    ことしは多忙すぎて、なかなか海外にいけない。さらに、もはやテロも対岸の火事ではないわけで、日本企業も海外への出張渡航を規制しはじめている。
     日本でもあと数日で参議院選挙がはじまるが、とくにぼくの年齢層、四〇代とその下の世代の投票率が、かなりひくまりそうだとの予測もあった。これにたいし、団塊の世代の投票率は高いとの予測。数字でいうと、ぼくらは団塊世代に政治的意思決定において、従属することになる。
     今回の第二四回参議院議院通常選挙は十八歳以上から投票できるが、教育的準備も心構えもないのに、大人たちから急に選挙に行けといわれても、反発を感じると思う。

    ぼくは高校生の一年間をアメリカですごしたのだが、カリフォルニアの高校生、九から十二学年生は、現代社会の授業が必修になっており、大統領選についてのディベートや模擬戦をするなど、三年間かけて有権者としての自覚を培っていた。
    ヨーロッパ各国でも選挙や軍備はもちろん、教育、医療、福祉、社会保障、納税の周知における現代社会教育に力をいれており、高校卒業後、社会にでても困らないよう教育がなされるという。

     日本は?

    選択制という口実はあっても、現代社会も、ついでに現代詩も、日本の教育カリキュラムのなかでは不在にひとしい。非正規雇用が増大するいま、納税や福利厚生について、具体的に学んだことがなければ、無論、納税の義務も仕方もわからないだろう。

    日本国憲法で「戦争の放棄」をかかげる第二章、その第九条が形骸化され、第三章「国民の権利及び義務」第一三条「個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉」から、「個人」という言葉が削除され、「人」に改変されようとしている。
    だいたい、「人の尊重」とは、なにを意味する日本語だろう。動植物より人を尊重するということか?個人ではなく、「すべて国民は、人として尊重される」とは、一体全体、なんのことか、意味不明だ。いくらなんでも、日本語として、無理がある。日本語として曖昧なら、条文そのものが改変される隙もできよう。個人より、人の集合体としての国家が尊重される条文に。

    もし、法を抹殺する者があらわれるとすれば、それは犯罪者であることよりも、守る価値のない法を生みだす者だ。そう説いたのは、ジェレミ・ベンサムを継ぐイギリスの法哲学者、ハーバート・ハーストだった。

    日本の分岐点になるかもしれない、七月十日からはじまる参議院選挙。

    投票には、かならず、ゆきたい。

2016年7月2日土曜日

見沼の梅雨の花



    「桜回廊」の土手に、藪萱草の花が、咲いた。

    ヤブカンゾウ。見沼では昔から、ただカンゾウと呼ばれていた。梅雨入りからすこし経つと咲きはじめる自生の花は、農家のお年寄りによれば、昔はいたるところで見られたという。

     人間たちのちいさな開発のせいで、一時は、ほとんど絶えてしまいかけた。
    見沼のヤブカンゾウ保存会のみなさんが、日頃から手入れをしてくださるおかげで、こうして楽しむことができるようになった。

    自然とはじつにdelicateなものだ。

    別名は、忘れ草、ともいうらしい。

     一日咲くと、すぼんでしまう。一日花だからだろうか。みずからが咲いていることを忘れてしまう、花。たしかに、朝は咲いているヤブカンゾウが、夕方には蕾にとじこもってしまう。

    蒸し暑く、何日も雨がつづく梅雨に咲いて愉しませてくれる、たいせつな花。ぼくにとって、見沼の梅雨を象徴する花だ。西脇順三郎のいう、symbolだ。
    藪の暗がりを明るく灯す、オレンジの花を見ていると、ちょっと元気がでる。

   そういえば、近年、カンゾウの会の群落以外にも、見沼のそこかしこでこの花を見かけるようになった。会のみなさんのお陰で、花の種子が旅にでれるようになったのかもしれない。

    いつまでも、見沼に咲いていてほしい。