新倉俊一さんの新詩集『王朝その他の詩篇』(トリトン社)をお送りいただく。くりかえし、読みふけった。
ぼくの場合、さんづけなぞ畏れ多い。ぼくは二年間、新倉先生のアメリカ詩講義をうけたのだから。
新倉先生は、金関寿夫先生、沢崎順之助先生、鍵屋幸信さんらとともに、日本におけるアメリカ現代詩研究、翻訳、紹介者の草分けのおひとりとしても高名だ。
新倉先生がいらっしゃらなかったら詳細な注釈の附されたエズラ・パウンド『詩経』完訳や『エミリー・ディキンソン詩集』は読めなかったわけだし、『西脇順三郎 変容の伝統』、博覧強記な『西脇順三郎全隠喩集成』など、日本における本格的な西脇研究書も読めなかった(新倉先生は慶應生時代、西脇順三郎の学生でもあった)。もちろん、『エミリー・ディキンソン 不在の肖像』も。そして、数々のアメリカ現代詩の翻訳と紹介文。いまも、すべて、ぼくのバイブルだ。
イントロダクションはさておき、本詩集は、「能のワキとシテという構図を借りて、前半は王朝文学の美を題材にして、後半では現代詩人たちを扱いました。末尾にパウンド自身がシテとして現れています。」(トリトン社紹介文)というもの。みじかく彫琢された美しい詩行には、世阿弥から西脇順三郎、日本現代詩、アメリカ現代詩までが能管と鼓のごとく響きわたっている。味わい深い、翻訳としての詩空間。読後、そんな感慨にひたった。うすい装いの、ささめきがつまったような、かろやかな詩集。でも、そこには言葉の存在の重みが、たしかに宿っている。
書きたいこと、讃えたいことは、多々あれど、一点だけ。
詩集後半の日本現代詩のパートでは、鮎川信夫、田村隆一、北村太郎といった戦後詩人たちも召喚されている。
新倉先生は生前の「荒地」の詩人たちとも親交があり、ぼくも講義の内外でたくさんお話をきかせていただいた。西脇詩もそうだけれど、実際の交流から、新倉先生にしか書けない戦後詩人たちの姿や声が本詩集にはちりばめられていると思う。
では、シテとワキを交代して、ぼくからも、新倉先生にまつわるエピソードをひとつ。
十数年前。新倉先生による大学院生のための講義で、テーマはエドガー・アラン・ポーの長詩「大鴉」だった。前期講義の最終日。授業のおわりに新倉先生は、一枚のタイプ紙をとりだす。ぼくも、たまには楽しまなきゃね」とおっしゃり、おもむろに自作の詩を朗読された。その未発表作品は、新倉先生自身の言葉とともに、パウンドを思わせ、西脇を思わせた。静かに、それでも新倉先生のよくとおる声で、朗々と読まれた。余韻の残る、とてもいい詩だったと記憶している。
その詩は、本詩集には収録されていないと思う。ぼくは、感銘をうけ、授業後、ぜひその詩をもういちど読ませてくださいとお願いしてみた。
先生は無言で微笑まれ、詩の草稿をかるくたたまれると、灰色のスーツのポケットに、そっとしまわれたのだった。