作家の澤村修治さんから、新刊本が届きました。
『悲傷の追想 「コギト」編集発行人、肥下恒夫の生涯』
(ライトハウス開港社)という印象的なタイトル。
若き保田與重郎を中心に象られ、
「日本浪漫派運動」の母体ともなった同人誌『コギト』。
その編集・発行者として知られる
肥下恒夫の謎めいて数奇な生涯を、
肥下の親族の証言、書簡、日誌、作品集など
ほとんどが未発表の第一資料から浮上させた
ノンフィクションです。
肥下は『コギト』の実務的な編集者として
活躍するだけでなく、保田に激賞され、
少ないながらも小説、詩、
評論などを遺した文士でした。
戦後の農地解放とともに帰農し、沈黙。
さらに沈黙の果てで自ら死を選んだ人でもあります。
公職追放になりながらも、
戦後は華々しく多産な知識人としてふるまった
保田とは対照的な「保田の影」のような存在。
『コギト』といえば、
日本ナショナリズムや日本浪漫派研究においては、
保田や田中克己、伊藤佐喜雄、伊東静雄などに
舞台照明が当たりますが、
肥下は、澤村さんの言葉によれば、
保田をはじめとする「子」を産み育てた
『コギト』の「母」のような人物でした。
澤村さんは、この多弁な「子」らと、
言葉少ない「母」のかかわりを
当時に遡って読み解き、
『コギト』という同人誌を高め、象った
「協同の営為」(保田)の在り処をさぐります。
澤村さんの慧眼は何より、
これまで文献に登場する氏名でしかなかった
「肥下恒夫」をフォーカスしたこと。
「どのような思想運動も
始源まで遡って検討しないと、
その意味を精確に見つめることは
できないとすれば」(「はじめに」より)と、
澤村さんは仮定します。
滾りたつ情念の炎を氷の美文で結晶させた
保田與重郎の特異な批評の言葉は、
あまりに特異であるため、ときに理解不能であり、
その思想の核はいまもって見定めがたい。
けれども、澤村さんが指摘しているように、
『コギト』創刊当初の保田の言葉は、
激越な論調を奔流させながらも、
ときには「やわらかさ」さえ感じさせる
流路の定まった明確な批評でした。
それが肥下という無二の伴侶を得て、
思想運動体としての初源『コギト』に
深く傾斜していくことで論理は決壊し、
「言霊の文学」(桶谷秀昭)と呼ばれる
保田の批評に徐々に変貌してゆきます。
さらに言えば、保田は肥下の小説作品
「佐伯家の人びと」「しのぶ」の2篇に
自らの小説論「アンチ・デイレツタンチズム」の
理想を認め、熱っぽく激賞することで、
特異な批評言語を感覚的につかんでいく。
保田にとって『コギト』は
自身が参加した(編集も担った)だけでなく、
その「精神の運動体」を失速させまいとする
何よりも切実な「批評」の対象でした。
それは切実な「愛」の対象でもあり、
批評精神と情念の虚焦点には
「母」である肥下恒夫がいたのです。
本書の巻末には未刊行の
「肥下恒夫作品集」が付録としてあり、
貴重な資料となっています。
ぼくには保田の文章だけではなく、
また肥下の作品にも
『コギト』の熱気や「協同の営為」の空気が
滲みこみ、静かに漂っている気がします。
保田らの「動」を生んだ、肥下の「静」。
動と静の間にひととき渦巻いた風を、
狂気と呼べばよいのか、
パッション(受苦)と呼べばよいのか。
『悲傷の追想』読後、
いずれにせよ『コギト』に吹いた
「協同の営為」の熱風は
保田の批評精神に鎮火しがたい溶岩を植え、
沈黙を守り平静を努めた肥下にも、
死へと連れ去るほどの
激情を残して吹き過ぎたのではないか、
そんな感慨を抱きました。
ぼくの上記の感想を、
本書は声高に書いてはいません。
澤村修治さんの本は、今年2012年に出た
『宮沢賢治のことば』(理論社)から、旧作の
『宮沢賢治と幻の恋人』(河出書房新社)へと
読み進んできました。
どの作品もインタビューや未発表資料を
丹念に拾い、精読し、蝟集した
ノンフィクションの傾向の強い文芸評論です。
作家・澤村修治の魅力は、
説得力ある資料性の提出と発掘
というだけではなく、
文学者に偶然かかわった無名の人物が
ある決定的な影響を与えた可能性を
示唆する瞬間にあります。
宮沢賢治であれば、
澤田キヌのような人。
農夫や教え子たち。
人と人が偶然に出会い、
ともに生きることから、
文学は紡がれます。
澤村さんは資料と資料をつなげ、
沈黙していた記憶の破片と破片を近づけ、
これまでは聴こえてこなかった
詩人や作家の「声」を
音叉のように響かせる名手。
そしてそれが、
特権的な存在の「声」だけではなく、
最期まで無名の者として日々を誠実に、
懸命に生きた同時代人の「声」をも
聴きとり、響かせる作業でもあることに
ぼくは驚きを禁じえません。
その意味では、
『悲傷の追想』の肥下の「静」は、
どこか澤村作品のたたずまいと
通ずる気配がある気がします。
澤村作品の手腕が発揮されるのが
いつも沈黙の胚につつまれた声、
未生の声にたいしてであることに、
ぼくは、詩を感じるのです。
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