2014年11月27日木曜日

早稲田大学講義はじまる


 11/25から早稲田大学創造理工学部で講師をすることに。ほかの仕事も入れて、一泊二日、都内へ出張。早大の学生のみなさん、よろしくお願いします。
 早大は文学部で講義やイベントに出演したことはあったけれど、理工学部ははじめて。キャンパス内には「高速運転電力施設」とか、理工学部ならではの耳なれない施設が点在していた。別の授業を覗き見しても、黒板にはまったく理解できない数式がならぶ。ぼくにとっては、不思議の国にまよいこんだ感覚がある。なになに、「百円朝食」?。これならわかるぞ。でも、百円ってすごいな。
 夜は思潮社の高木総編集長、出本氏と呑み会が予定されていたのだけれど、諸事情あって、中止。神保町にでて「いるさ」で食事をしてから、わが隠れ家バー「グラウンド・ライン」へ。ボウモアのシングル・カスク、19年が入っていたのでストレートでもらう。
 翌朝はホテル近くのモエ・ヘネシー・ジャパンで打ち合わせをして帰宅。さいたまでは大銀杏の紅葉がまっさかり。秋の長雨のなか、黄金のプールができていた。

2014年11月24日月曜日

ブールジュのアーティストたち(4)


画家 Xavier Bolotさん




 イグザビエ・ボロット氏はブールジュ在住の画家。執筆滞在の折りには公私にわたってお世話になった。
 パリのソルボンヌ大をはじめ、エコール・デ・ボザールの会員でもあり、脳科学・神経生理学の分野から視覚の研究もされている。彼の絵画のテーマはいわば「見え」をめぐるもの。人間と絵画にとっていわば世界がどう見えているのかを、脳科学とヨーロッパ絵画史から詳細に論じた斬新な研究書も刊行している。
 純粋に画家としても人気があるのだが、彼からはヨーロッパ絵画におけるデッサンの制度、テンペラ画法など、さまざまな話を聞き、教わった。とくに面白かったのが、建築と絵画の視覚の関係性。イグザビエによると、ブールジュのサン=テチエンヌ大聖堂の支柱は花が咲くように上方に開いている。いかに垂直に見えようとも、これは堂内における人間の視覚を荘厳へ導くのと同時に、巨大な大聖堂の重量を支えるための必然的な施工だ。設計・建築技師には敬虔な修道僧も多かった。ルネサンス以降、ポピュラーになった人体のデッサンは、歪曲にもとづく伝統的な中世建築学に影響されているのだという。
 このあたりのことは、ぼくがあずかっている彼の英訳原稿にくわしい。もしご興味がある方は、ご連絡ください。イグザビエの中世建築学の話を聞いていると、ダン・ブラウンのミステリの世界にまよいこんだかんじがした。
 イグザビエは「見えない波」公式ホームページのために、原稿を寄せてくれた。英訳もついています。近日、アップしますので、お待ちください。

2014年11月22日土曜日

ブールジュのアーティストたち(3)


さて、これはなんでしょう? 
答えは本文で。





左からXavier Bolot さん、右がIsabelleさん

 「ランチでもどう?」と、イサベルが手料理でもてなしてくれた。パートナーで画家のエグザビエさんも合流して、あいさつ。
 友だちの陶芸家の作品という絵皿にサラダ、そしてベリー地方の代表的なおもてなし料理、いものタルト(白ワインにすごくあう)が前菜。おしゃべりと食事がはじまる。ほどなくすると、恐竜の卵のようなものがドーンとテーブルのまんなかにのった。
 卵はイサベル発明のオーブン用ポット。ふたをとりはずすと、黄味のようなものがほかほかと湯気をたてる。以前、本ブログで紹介したプチマロン(というカボチャに似た野菜)で鴨と豚肉の合い挽き肉、栗などをつつみ、むし焼きにした料理だった。
 「わたしたちはマレに畑をもっているの。そこで収穫したプチマロンよ」とイサベル。肉汁がとれたてのプチマロンによくしみこんで、ものすごくジューシー。料理の腕はシェフにひけをとらない。フランスの秋を舌で堪能した。

2014年11月19日水曜日

ブールジュのアーティストたち(2)





 イサベルの家の地下室から出土したのは、古代ローマ時代から18世紀にいたる、陶片の数々。
 いちばんうえの写真、緑の釉薬がつかわれているのは、16世紀ごろの食器。蓋がつくようになっていて、かたちからすると給仕用のスープボウルかもしないとのこと。ジャック・クールをはじめ、ブールジュには裕福な商家が軒をつらねていた。次はローマ時代の陶片。もとの姿は不明だそう。
 三番目の写真、ブルーの釉薬の人物像の部分。イサベルによると、これは中世の狩りの装束で、人物が持っているのはパイプだとか。猟場で音楽をかなでたり、音で獣を追いつめたりするのだという。
 一番下の写真は、ブルーの人物像の陶片をもとにイサベルが復元して焼いたもの。これは伝統的な装飾屋根瓦で、日本の鬼瓦のように屋根の四隅にとりつけられる。注目してほしいのは、人物像の下の部分。おっぱいみたいな突起があるでしょう。これは風が吹くと笛のように鳴る細工。あ、だから楽団の笛吹きなのか。かつてのブールジュでは、屋根のうえで風見鶏や音楽家たちが風のホーンを鳴らしたのだと思うと、うれしくなる。昔の人は、ほんとうにすてきな遊びごころをもっていた。

2014年11月17日月曜日

ブールジュのアーティストたち(1)



陶芸家 Mme. Isabelle Renault


イサベラさんの作品




 帰国後の〆切祭りも一段落。ブログの更新を再開します。これからしばらくは、フランス、おもにブールジュで出会ったアーティストたちを、その暮らしぶりもふくめてご紹介します。
 写真のマダムは陶芸家のイサベラさん。ラ・ボーヌには在住せず、ブールジュの旧市街で陶芸を営んでいる。かつては小学校の英語の先生でもあり、自分のステュディオで子どもむけのワークショップもおこなっているのだ。写真のトップは、今夏の子どもたちの課題。精巧につくられたサン=テチエンヌ大聖堂は三人の子どもたちの共作。
 イサベラが焼くのは植木鉢や装飾屋根瓦など。でもたんなる日用品ではなく、中世の陶芸を研究して生まれた、まさに「用の美」の陶芸だ。その日は完成品が売り切れていたが、植木鉢も素朴さのなかに洗練されたものがあって、とてもいい。陶芸家というと、田舎に暮らして窯を築くイメージがあるけれど、中世ヨーロッパではパン屋と同じで街に工房があった。いわばイサベラのほうが、伝統的な職工かもしれない。「最初は食器もつくっていたわ。でもみんな茶器や食器を専門的につくるでしょう。わたしは街の人のオーダーメイドでいろんなものをつくるの。中世の陶工たちは食器から家具まで、ほんとうになんでもつくったわ。わたしはそんな歴史にも興味があるわね」と、イサベラ。
 イサベラの家は築四百年ほど。ブールジュでもひときわ古い家だ。そして二十年前、イサベラがこの家を買い、修繕にとりかかったとき、おどろくべきものが見つかる。それがこの地下室。なんと地下三階まである。調査ではローマ時代まで遡るらしい。最初は土に埋もれていたのだけれど、イサベラが地元の歴史学者の協力で、何年もかけてバケツで掘り返してここまできたのだという。この珍しい地下室の話は、次回をお楽しみに。

2014年11月13日木曜日

帰国しました



 ボルドー、パリ、ブールジュ。フランスでの約二十日間の執筆滞在を終え、帰国しました。帰国後は仕事や〆切に追われ、ブログが更新できずにすみません。これからも、ぜひおつきあいください。
 現在、絶賛、時差ボケ中。写真は午前六時、夜明けの庭。ここまでで、もう原稿を一本書きおえている。日本に帰ってきてだいぶ秋が深まったと思う。熟しきった黒柿をめぐって、毎朝ヒワとオナガがやかましく陣地争いをくりかえす。
 帰国後の初仕事は、さいたま市内の芝川小学校でのワークショップ。親子で楽しむ「詩のスケッチ」をやりました。子どもたちは天性の詩人。大人の参加者のみなさんも、子どもたちのためにがんばりつつ、楽しんでくださったようだ。
 今回のぼくのベストフレーズは高学年男子の詩行―

 「それでも にわとりは いいやつ」

 芝川小学校のみなさん、また、来年!

2014年11月4日火曜日

ラ・ボーヌ、陶芸家の村での朗読





陶芸家 David Louveau  ダビッド・ルーボー




Mizuho Ishida


詩人 Francois Coudray フランソワ・クードレー



 ブールジュから車で三十分、田園地帯に陶芸の村La Borne ラ・ボーヌがある。日本の益子やイギリスのセントアイブスのような村で、そこで陶芸家を営むDavid Louveau ダビッド・ルーボーさんと奥さんのCorinneコリーヌさんに、「窯入れ」の場での朗読に招かれた。窯入れとは、轆轤などで成形した陶器を文字通り窯に入れて焼きあげること。陶芸家にとって、もっともエキサイティングな晩だ。とくに日本の諏訪で修行したダビッドは、自作の穴窯をもっており、薪と登り窯ですばらしい信楽を焼く。
 日本の陶芸のコピーに終らない、ダイナミックで野趣にみちたダビッドの器は、日本の陶芸家にはけっして真似できないフリーな感性、というか野生をつらぬいている。火、土、森、夜、五大を詩の基としているぼくにとって、アーティストとのコラボレーションとしては、これ以上、望むものはない。パリでも評価が高まり、押しも押されぬ陶芸家となったダビッドの公式HPをぜひご覧あれ。

http://david-louveau.com/pages/presentation.html
 
 ブールジュでは同世代の、とても気になる詩人と出会えた。Francois Coudrayフランソワ・クードレー。山男であり、詩にタイトルをつけず、クラシック音楽を愛しみずから詩に曲をつけて朗読する、余白に満ちたうくしい言葉の形象をつむぐ詩人。今週、彼の第三詩集が上梓されるのだが、その原稿を読み、アドバイスを授けたのがなんとかのイヴ・ボヌフォア。彼も同行してくれるというので、ぼくの期待は否応なく高まったのだ。
 ところが、ボーヌに到着してダビッドとビスをかわし、新作の中国茶碗とポットで彼の淹れてくれる高山烏龍茶を飲んでいると、彼は穴窯からガス窯に移行しており、今日は窯休めのために窯入れはなしとのこと。作風もだいぶ変化していた。「だって気分が高ぶって待ちきれなかったからさ!」。さすが野生児、ダビッド・ザ・ポッター。
 というわけで、我々はコリーヌさんがつくるレストラン顔負けのディナーをご馳走になった後、ワインを持ってダビッドの工房へ。
 今回の催しは、お願いをして「見えない波」とのコラボにしてもらった。ぼくは、「見えない波」謹製日仏対訳フリーペーパーを配布しつつ、スロヴェニアでも読んだ「夜釣り」という詩を声明つきで朗読。そして、おお、フランソワ!彼は第二詩集『山』から二篇を読んでくれた。言語詩の先鋭な技法と、彼の故郷であるシャモニーの山々、自然への愛が見事に融和した、静けさと空白にみちた朗読はすばらしかった。
 こうしてプライヴェートリーディングが終了したのは深夜。ぼくは「見えない波」公式HPのためのメッセージ動画をダビッドからもらい、フランソワからは詩作品をもらうことを確約。フランソワの詩は日本語訳を付し「見えない波」公式HPに掲載の予定です。

2014年11月3日月曜日

ブールジュ、聖エチエンヌ大聖堂







 街のどこを歩いても、マレを歩いていても、その姿は見える。世界遺産に登録されている聖エチエンヌ大聖堂は、ブールジュ、いやベリー州のシンボルといえるだろう。
 とはいえ、パリから二時間の州都ブールジュを訪れる観光客はあまり多いとはいえない。後でブログにもご登場いただく、観光ガイドもするイザベルさんいわく「来たと思ったら大聖堂を見て二十分で帰ってしまう」団体客ばかり。おかげで中世の小都市はいつも静穏なのだけれど。
 大聖堂の由来はwikiっていただこう。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/サン=テチエンヌ大聖堂_(ブールジュ)
 いま夏時間のブールジュの夜明けは、午前八時頃。ぼくはその前に仕事をし、天気がよければ紅茶とフルーツ、ガレットの朝食後にギヨー家のテラスで執筆を再開する。写真のように、そこからも大聖堂の偉容を眺めることができる。朝八時半と十一時半に礼拝があるみたいで、大聖堂の鐘が鳴る。最初は単音で鐘が鳴りはじめ、しだいに複数の鐘が打ち重なりながら、合奏してゆく。毎日、鐘音に導かれながら、言葉をつづってきた。
 夕方から夜にかけては、一日の終わりを鐘が告げ、うすい薔薇色の夕空、月の出、ライトアップされてゆく大聖堂を眺めながら、ワイングラスをあげつづける。

2014年11月2日日曜日

ブールジュ、プラタナスの秋






 フランスの数々の詩人にうたわれてきたプラタナスの樹。夕方、執筆が終り、近くのJardin des Pres-Fichauxまで散歩する。背の高い、すばらしいプラタナスの並木道がある。l'Yevre(イーブル川)の池、水鏡になった紅葉とプラタナスの枝。
 散歩から帰宅するのは、いつもだいたい18時。テラスにでてオピネルでチーズを切り、ワインで晩酌がはじまる。ブールジュのチーズは山のもの、ドライで固めの山羊のチーズが多い。暮れゆく空、いくつも通る飛行機雲、聖エチエンヌ教会を眺めながらの、ワインと放心のひととき。

2014年11月1日土曜日

ブールジュ、マレの散歩道





 執筆がひと段落する夕方、近所の「マレ」に散歩にゆく。Les Marais(レ・マレ)とは、「沼地」の意味。由来はつまびらかではないのだけれど、中世の大商人ジャック・クールのころから、市街地(村みたいな感覚だけれど)の外にカントリーライフを楽しめる場所を保存しようとしたのがこのレ・マレだ。
 写真のように、沼沢地はイーブ川を中心に、水路によって碁盤の升目になっており、ブールジュの住民は小屋を建てたり畑をつくったり、釣をしたり、思い思いの田園生活を楽しんでいる。写真はハロウィン仕様の畑。
 印象派の風景画のような、中世のころから変わらない沼沢地にはたくさんの野鳥がいる。鴨、ブラックバード、セキレイ、アカハラに似た鳥たちが鳴き交わし、せわしなく行ったり来たりしている。
 ブールジュはフランスの臍、ほぼ中央に位置するのだけれど、いわゆる漂鳥のメッカでもある。漂鳥とは、渡り鳥だったものが群からはぐれて彷徨している野鳥のこと。留鳥は、渡り鳥だったものが土地に居着いてしまい、そこで繁殖するようになった野鳥のこと。留鳥はその土地に縄張りを持っているのにたいし、後からきた漂鳥は決まった餌場を得ることがなかなかできない。移民や追放者のような野鳥が、周縁の肥沃な土地から追われたり、迷ったりしながらたどり着くのが、このフランスの臍なのである。
 マレを歩きながら、ぼくは鳥の吟遊詩人たちがなにをうたっているのか、聴き入る。