2015年10月20日火曜日

高岡修『虚無の見る夢』を読む



   11月8日に鹿児島は知覧で開催される国民文化祭。ぼくを招いてくださった、鹿児島の詩人、高岡修さんの『虚無の見る夢』(ジャプラン)を、ここ数ヶ月、かたわらに置いている。

    「新虚無僧伝」と副題にある、この書物。ひとことではいえない、とてもユニークな書物だ。

    「私」を語り部に、「虚道」さんという禅僧が主人公なのだけれど、純文学小説(時代小説?)であり評伝、仏教書でもある。また、高岡修という詩人であり俳人でもあるひとの詩学を如実に語ってもいる(「虚無」という言葉は高岡さんの詩にも俳句にも頻出するし、テーマとなっていると見受けられる)。その意味では、キメラ的な私小説ともいえるかもしれない。

   虚道さんは、これも高岡詩のテーマなのだが、「死児」なのだ。

   畏敬する高岡修さんは、詩も書き、俳句もつくり、批評もエッセイも書く。さらに、今回、小説(?)も書かれたのかとおどろいた。だが、その背骨たるや、詩であることに変わりはない。

    さまざまな他者の言葉、他者としての異ジャンルが交差することで、移動している本。ぼくはそんな書物を最近、別のエッセイで「旅する本」と書いた。

   そして、高岡修さんは「旅する詩」の書き手なのだとあらためて思わせる、不思議な余韻を、本書は秋の机辺で奏でてやまない。

    鹿児島で再会するのが、楽しみ。

0 件のコメント:

コメントを投稿