2015年1月26日月曜日

『高岡修句集』を読む


   鹿児島の詩人・俳人、ご存知、高岡修さんから現代俳句文庫『高岡修句集』(ふらんす堂)が届く。久しぶりにいい句集を読んだ、そんな余韻のうちに手もとに置いて、読み返している。
   詩や小説を読みあぐねたとき、どうしても俳句に浸ることが多い。いみじくも、高岡さんはこの文庫に収録されたエッセイ「俳句における言語論(抄)」の冒頭で「俳句は、書かないという意志において書く文学行為である。」と喝破されていて、見事な定義だと思う。解説は高岡さんと懇意にされているという、小説家の藤沢周氏。意外な、それでいて藤沢氏らしい切り口で高岡俳句を論じておられた。論考というものの面白さを改めて味わう。
   蕉翁の俳諧にもたびたび立ち戻るが、ぼくの俳句の愉しみ方はきわめて
個人的で、わがままなものだ。とくに近代以降の俳句、高岡さんも追求されている自由律俳句は、孤独の文学だと思っている。パーソナルな声を楽しむものであり、晩酌のとき、独りになるために酒器を傾けながら読むのを無上の愉しみにしている。わずか17音の器から溢れる、広大な思索の世界にこころを馳せる。俳句はほんとうに不思議な文学で、限定され、圧縮されているからこそ、読者は詩や小説よりも自由に思索と空想の羽をのばすことができるのだ。
    とても好みな一句を見つけた。

    春亡ぶグラスに海を少し容れ

そして終盤へと読み進め、
 
   白鳥を裂いて取り出す白い闇

   盃をおき、文庫からふと目をあげる。テレビでは「イスラム国」の人質となった湯川氏が殺害された、との報道。

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