2015年9月19日土曜日

安保法案、彼岸花の記憶




   去年のダイアリーを見て、ああ、やっぱり、とうなずいた。秋雨の時季はなぜか、エッセイをはじめ散文の注文が多く、デスクをはなれられない日がつづくのだ。家からもでられずに、秋の雨と、ブルーインクの文字の雨に、降りこめられる気がしてしまう。

    いわゆる「戦後詩」についての原稿を書いていて、論考は単行本に収録の予定。「戦後詩」について書くことは、畢竟、昭和についても書くことになる。こんなとき、ぼくはノンフィクション作家の保阪正康氏の著書をたよりにしている。『昭和天皇』、『あの戦争は何だったのか』、『昭和史講座』は、くりかえし読んできた。

   「安保法案」が、今日、参院本会議で成立する見込みだ。

    岸信介の亡霊にとりつかれたかの、安倍晋三首相。以前、防衛省に近い新宿区四谷に住んでいたころ、安倍氏の街頭演説をきいたことがあった。ソフトな言葉でかくそうとしていたが、その本質は、明確な歴史修正主義者の演説だった。そうした首相下の内閣・自公与党が、憲法学者が違憲と指摘する安保法案を押し切る。これで終わるはずがない。

    今年、文部科学省が一方的に通達して世間を驚かせた国公立・私立大学の文学部や社会学部の廃止検討も、ここまで右傾化するいまの日本の政官体制だと、つい疑惑をいだいてしまう。

    自由思想、芸術、民主主義社会をになう人材の育成、カウンター・デモクラシーにむすびつく声と集団は、脅威なのだ。

    ぼくは、アメリカとフランスの詩人に、政治家と文科省が人文系学科を廃止しようとしていることを話すと、「日本は先進国で民主主義国家でしょ?」と、目を丸くしていた。

    文学、社会学、諸芸術を大学教育から失う社会。それは、国家と産業のための知的奴隷を生み出す教育としか、ぼくには映らない。

    2015年9月19日。従姉妹の月命日でもある、戦後日本の民主主義が深い危機に陥った今日を、ぼくは、忘れない。法案成立後も、廃案論が終わりになるわけではない。原発もおなじ。

   なにより、70年代以降、屈指の反対運動が全国的におこなわれたのにもかかわらず、民意を聞こうともせず、与党はなんら直接的な対話をしようともしない。この可決への過程こそが、非民主的だ。これも、日米安保改定に際し、安倍晋三の祖父岸信介が「国会外」にきわめて冷淡だった戦法を猿真似しているにすぎない。いいつのれば、今回の安保法案は、当時の日米安保改定の枠組と比較にならないほどおおきな違憲的改憲になっている。

    安倍内閣はじめ、多くの歴史修正主義者がそうであるように、かれらにとって歴史は悲劇でも喜劇でもなく、ファンタジーである。ただし強行可決後も、安倍氏は祖父とちがい、政治的に自決する覇気は毛頭ないのだが。かつての政治家はもっと懐の深さがあった。ついでに、外交においては、もっと粘り強かった。いまは政治家はおらず、みな政治屋になりさがった。

   選挙民としては今後の選挙に向けて、詩人としては、この現在と記憶を詩作や論考に、末永く刻んでゆきたい。

    雨も止んで、じつに久しぶりの、いい秋空。気晴らしに庭にでて、雨後につぎつぎ咲きそろった彼岸花を写真に撮る。そうだ、この彼岸花の色。わが記憶の色彩は、真紅で胸に刻まれるだろう。

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